管内の特産品・農業について

江戸東京野菜

 「江戸東京野菜」は、江戸期から始まる東京の野菜文化を継承するとともに、種苗の大半が自給または、近隣の種苗商により確保されていた昭和中期(昭和40年頃)までのいわゆる在来種、または在来の栽培法等に由来する野菜のことをいいます。

 江戸庶民や東京市民の食卓を支えてきた江戸東京野菜ですが、食生活の変化に伴い、昭和40、50年代に一度は姿を消してしまいましたが近年、地元の伝統野菜を次代へつなげていこうと再び栽培をすすめています。

下山千歳白菜

 世田谷区北烏山の故・下山義雄さんが戦前、戦後を通じて選抜、改良を繰り返し、通常の白菜に比べて2、3倍の大きさで通常5、6キロ、大きいものは10キロ近くになり、軟腐病やウイルス病に対して耐性のある白菜を育成しました。

 東京の白菜が病気の被害を受け出来が悪い中でも下山さんの白菜は発生率がとても少なく、昭和23年に下山さんの名と地域一体が千歳村と呼ばれていたことから「下山千歳白菜」として種苗登録されました。

 その後、一時は全国に広がりましたが、栽培に手間がかかることと核家族化が進みその大きさから需要が減り、次第に栽培されなくなり昭和40年代に姿を消しました。

 しかし、平成10年に地元の住民が結成した「烏山みずとみどりの会」が地元産の白菜の存在を知り、下山義雄さんに強く栽培を依頼し40数年ぶりに復活しました。

 現在は父親の後を継ぎ息子の繁雄さんが栽培を手掛けています。

馬込半白節成キュウリ

 馬込村では、昔から大井節成が多く栽培されていましたが、明治33年頃に白い部分の多い、独特の性質をもった馬込半白がつくられました。市場価値も高く、馬込の特産品となりました。

 馬込半白は、『つる』の10節位から続いて雌花のつく節成種で、つるの伸びの強くない品種は、つるを立ててやると、よく育成することがわかり、馬込では支柱栽培を開発し確立しました。

 大正9年頃『大農園』という採種組合が篤農家、河原梅次郎氏を中心に数件の農家でつくられ、その後、昭和8年には、『馬込半白採種組合』が高瀬三次郎氏を代表として設立され、品種の保存と均一化に努めました。

 馬込で採種した馬込半白を温暖地の近県をはじめ四国、九州まで栽培指導した河原梅次郎氏の功績は大きいものがあります。

 馬込半白が栽培されたのは昭和38年頃までですが現在も大田区の大森地区では数戸の農家が先人がつくりだした特産品を守り、次代へつなげようと頑張っています。

馬込大太三寸人参

 古来、馬込の周辺では、砂村三寸と川崎三寸(西洋種)が栽培されていましたが、西馬込の篤農家、河原清吉氏らにより、砂村三寸と川崎三寸を交配して、それぞれの長所を受け継いだ、大形で形・色のよい人参に改良され固定されました。

 昭和25年、大森東部農協(組合長、高橋正夫氏)が『馬込大太三寸人参』の名称で農林省に種苗登録し以後、馬込の特産品となりました。

 農協では農家が採種した種子を買い上げ、宮内庁の三里塚牧場をはじめ全国に販売しました。また、この時期を境に人参栽培は急速に普及していきました。

 しかし、馬込で人参栽培が盛んであったのは、昭和38年頃までで、農地の宅地化とともに徐々に減少していきましたが現在も大田区の大森地区では数戸の農家が先人がつくりだした特産品を守り、次代へつなげようと栽培を続けています。

伝統大蔵大根

 大蔵大根は、江戸時代に豊多摩郡(今の杉並区あたり)の源内という農民が作り出した「源内つまり大根」が原種といわれ、世田谷区の大蔵原に伝わり改良を重ねて「大蔵大根」となりました。

 昭和40年代までは盛んに栽培されましたが病気に強く栽培しやすい青首大根が普及し、核家族が増えたこともあり、冷蔵庫に入らない大きな大根は次第に姿を消していきました。

 しかし、古き良き野菜を見直そうという動きの中、平成9年から地元ゆかりの大蔵大根を作り、世田谷の農産物をPRしよう、と区内農家により再び栽培が始まりました。

 大蔵大根の特長は色は純白で光沢があり、根の上部から先まで同じ太さの円筒形です。尻は丸くつまって、太さは10~12cm、長さは45cmほど、重さは約3kgほどにもなります。

まるごと大蔵大根1本レシピ

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